出世と嘔吐
勝ち組になることを志向している友人と、吐く回数について話す機会があった。僕は「就職してからは無茶な飲み方をしなくなって吐かなくなったよね〜」という話をするつもりだったのだが、友人は今でも定期的に吐くことがあるという。
詳しく聞いてみると、友人は会社の飲み会や食事会に行った際、上司に勧められたら勧められただけ飯を腹に入れてしまい、吐く(こともある)ということだった。友人自身も嫌ではあるが、上司の機嫌を損ねないため、社内政治で弱みを作らないためにはそうするしか仕方ないらしい。
そして、僕も今後、転職先で生き残ったり独立したりしようとするなら、そうした大変な目に合わなければならないのだという。
全然わからなかった。わからないどころか違和感を覚えたし、「こいつを矯正してやりたい」という気分にすらなったが、どう文句をつければいいのかちょっとわからなかった。
友人は結果を出しているし、自分のやり方に自信を持っている様子だった。ディベートをやって勝てる自信がなかった。僕は「そうなのかもね〜」とお茶を濁してその晩は寝た。
床についたはいいが、なんだか負けた気がして全然寝付けなかった。その場でテキトーに流した話について「やっぱりこうだったんじゃないか」と思って、後からモヤモヤしてくることは結構ある。
布団からごそごそ起き出して便所に座って以下のようなことをメモした。
・資本主義というゲームに勝つために吐くまで飲食するのは絶対受け入れられない
・カレーにとって金は価値の一番目ではないし、そうあることを強制される謂れはない
・今後も無理のない範囲で戦う
・友人のやっていることは思考の停止と地獄の再生産なのではないか?
・あるいはコミュニケーション不足と無自覚なパワハラの正当化なのではないか?
二日が経った。まだもやもやしていたので、会社のパソコンで「上司 食事 吐くまで」で検索した。上で「無自覚なパワハラ」と書いたやつは「メシハラ」といって、立派なハラスメントだった。
同僚に友人の話をしてみたが「すげえブラックぢゃん」という反応が返ってきた。ちなみに彼らもそれほど白い職場で働いているわけではない。
と、いうことで自分の感覚がそれほどズレていないこと、世の中はそこまで最悪ではないことが確認できて安心したのだが、友人がそういうことを肯定する側になっていたのは結構ショックだった。
彼のいう勝ち組は収入が大きいということなのだが、それは人の上に立つことと同義だろう。今のジャパンでは階級の上昇と賃金の上昇は比例の関係にある。順調に勝ち組になった暁には、友人も若い子たちに飯を食わせて吐かせるのだろうか。
そういえば、将来的に子供が欲しいかどうかという話もした。自分の子供が飯をしこたま食って吐くことを肯定するだろうか。どうもそれはしない気がする。
友人は飯を食って吐く価値観でやってきた先達、同期、後輩たちに囲まれているために、こうした考え方を身につける必要があったに過ぎない。僕はそれが必要ない環境にいただけだ。本当は僕の方がマイノリティーである可能性は十分にある。
とはいえ、こういうのは仲間が多ければそれが正解とか、少なければ間違いとか、そういうことではないだろう。必要なのは社会正義の変遷について分析することではなくて、「出世のためにはメシハラを受け入れるのが正しい」という価値観を受け入れられない自分の価値観はこれだ! と言って、自分の持ち物を明らかにすることだ。
そう思ってもやもやしているうちに、こうした呟きを見つけた。
この「資本主義市場で売買される商品としての自分」という概念を使うと、感じていたことを綺麗に説明できそうだ。
つまり、人間は全部が「資本主義市場で売買される商品としての自分」で出来ているというわけではない。それぞれがそれ以外の部分を自分の中に内包しているはずだ。「資本主義市場で売買される商品としての自分」の値段を上げるために肉体面含めた他の自分を必要以上に圧迫するのは、個人的には趣味じゃない。他にもやりたいことがいっぱいあるからだ。
もちろん自己は不可分なので、やりたいこと共は回り回れば「商品としての自分」の価値を高めることもあるが、それだけが目的とは限らない。僕の場合はただすきだからやっていることが多い。これらの金にならない活動を、僕は大事にしていきたいと考えている。
だから、食えない飯を吐くまで詰め込んで出世を求めるようなやり方は、僕はしない。資本主義市場の商品として活動する時も、そうする必要がない人と一緒に活動できるようにしたいと思う。
だから、まあ、君は君のやり方で、できれば体を壊さないように頑張ってくれ。僕は僕のやり方で、なんとか生きられるようにやってみるから。
だからもう、俺たちはこの話を二度としないようにしよう。次は絶対喧嘩になるからね。
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